2013.02.01「ふくしま復興かけはしツアー」参加報告

 2013年2月1日(金)~2日(土)に「ふくしま復興かけはしツアー」に参加しました。このツアーは、一般社団法人Bridge for Fukushima福島交通観光の協業により2回にわたり実施されたもので、現地の旅行業者が地元の情報やネットワークを活かして企画する「着地型観光」のモニターツアーとして福島県から選定されたツアーでもあります。

 

金曜の夜に東京駅から観光バスで出発し、まず福島市の飯坂温泉に向かい、松島屋旅館に宿泊しました。深夜到着にもかかわらず夜食でもてなしてくださった女将に、発災時に滞在していた宿泊客や、それ以降に受け入れた避難者への対応など、震災当時の話を伺いました。

 

翌日、まず相馬市に向かい、Bridge for Fukushimaの「相馬基地」を、代表理事 伴場さんとスタッフ加藤さんの案内で見学しました。この拠点では、相馬・南相馬・新地にお住まいで乳幼児(1歳半まで)のいる世帯および妊娠中の女性を対象にした会員登録制度を基本として、週2回、ミネラルウォーターの配布とインドアパーク(屋内の遊び場)運営、(会員のニーズを探るための)アンケート調査、コミュニティ形成を目的としたイベント開催などを行っています。ミネラルウォーターの配布を行っている背景として、環境省が実施している河川・水源地のモニタリングの測定結果から水質への不安が市民に広がっており、相馬地方広域水道企業団では水道水中の放射能調査結果を公表し「不検出」としているものの、「安全と安心は違う」との思いから、企業などの支援を得て継続しているそうです。この日も、水を受け取りに来る方々がひっきりなしに訪れていました。

相馬基地を案内する伴場さん
相馬基地を案内する伴場さん
支援物資のミネラルウォーター
支援物資のミネラルウォーター
インドアパーク
インドアパーク

次に、NPO法人相馬はらがま朝市クラブの理事長 髙橋さんの話を伺いながら、松川浦に面する原釜漁港と水産加工場を見学し、朝市クラブ(仮設店舗群)内にある「報徳庵」で昼食を頂きました。相馬市は、震災がれきの撤去や仮設住宅の建設がかなり早く進み、行政による「安全宣言」が出されたものの、原発事故と風評被害の影響は大きく、農業・漁業とも回復は遅れています。漁業については、松川湾では月2回の試験操業を行っている段階ですが、試験操業に出られるのは200tクラスの大型漁船であり、100tクラスの漁船は沖合まで出られないため、がれきの引き上げ作業しか請け負えない、そういう格差も生まれているそうです。

 

一次産業に従事していた人たちは生産も出荷もできず、何もすることがなく路頭に迷っている、と髙橋さんは言います。「いま必要なのは物資じゃなく、仕事」だと。松川浦の漁業は、震災前はヒラメなどの高級魚を活魚として関東まで運搬するスタイルが主流で、水産加工業は少なかったのだそうです。しかし鮮魚の出荷再開そして生産量の回復がすぐには望めない現段階でできることとして、水産加工場を新設し、松前漬けや漬け魚など、他の地域の特産品と組み合わせた新たな物づくりをしようと奮闘されています。

原釜漁港を案内する髙橋さん
原釜漁港を案内する髙橋さん
水産加工場
水産加工場
新しい加工品への取り組み
新しい加工品への取り組み

昼食後、南相馬市の鹿島区に向かい、烏崎浜、みちのく鹿島球場などを鹿島商工会青年部の方々に案内していただきました。商工会青年部には消防団員でもあるメンバーも多く、避難誘導や救助など、震災当時の生々しい話も伺うことができました。特に印象深かったのは、第一原発の爆発を境に、一斉に報道関係者が町からいなくなった、との話です。また、車窓から見学した南相馬市立真野小学校では、震災直後に生徒を校庭で待機させていたが、「津波が来る」という地元の年配者のアドバイスでワゴン車などに分乗して高台に逃げ、人的被害を免れたそうです。

復旧作業の続く鹿島区沿岸部
復旧作業の続く鹿島区沿岸部
鹿島商工会青年部による語りべ活動
鹿島商工会青年部による語りべ活動
10km圏の検問近く、東京との距離わずか263km
10km圏の検問近く、東京との距離わずか263km

そして最後に、南相馬市小高区から相馬市に避難されBridge for Fukushima相馬基地でスタッフを務めている久米さんの話を伺いながら小高区を回り、さらに10km圏の検問所まで足を伸ばしました。小高区は2012年4月に「避難指示解除準備区域」に再編され、自宅への日中の出入りは可能です。しかし水道やガスは復旧しておらず、ごみの収集も行われないため、片付けたものはそのまま自宅敷地内に保管するしかない状況です。一見普通に見える町並みには人の姿はなく、静まりかえっています。検問所は、再編以前は物々しいバリケードで封鎖されいて、目にするたびに言いしれない不安に陥ったそうです。それでも久米さんは、避難指示が解除されたら小高区の自宅に戻ると決め、準備を進めています。ご自身のお子さん・お孫さんを含め、若い世代は戻ってこないだろうと思うが、それでもこの先「戻りたい」と思う人のために環境づくりをしたい、そう決めたのだそうです。

 

今回訪れることができたのは、ほんのわずかな場所でしかありませんが、そこで生活を再建しようと奮闘されている方々のお話を直接聞けたことは、今後わたしたちができる支援を考えるうえでも大きな意味がありました。現地でボランティア活動すること、現地のものを購入することもそうですが、現地に関心を持ち続け、耳を傾け、広く伝えていくことも大切です。さまざまな形で支援を続けていこう、改めてそう心を決めました。

 

(記:東)